きんたろうの家 すい臓がんと愉快な家族のブログ

すい臓がん3年間の闘病記と、思いつくままに書きなぐる絵と文。

たろ娘の黒歴史:東大入学式の祝辞に思う

 

あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、…ほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと…たちがいます。

 

 

 

両親とも、基本的にわたしに関心のない人たちでした。

 

わたしは中学時代、正月に親戚からもらったお年玉で参考書や問題集を買い、さらに勉強しないでゲームばかりして中学浪人していた兄をがんばらせるために、わたしのなけなしの数万円をあげることすらしました。

 

両親は兄には、なんでも欲しがるものは買い与えていたのに、たろ娘は ‟言わないので” 何も買ってもらえませんでした。今振り返ると、理不尽な扱いは幼稚園の時からでした。

 

わたしは高卒です。

 

小学生から高校生まで、正直に言って成績がよかったので、担任と母との二者面談で担任の先生から「東大も夢ではない」と言われて母は喜んでいました。

 

普通に地元の進学校に進学し、高校1年生の途中で、「理系脳か文系脳か診断するテスト」を全員が受けて、結果わたしは“ちょっとだけ”理系の方に偏っていました。

 

(父たろ夫は中学時代、数学は5、英語は1だったと言っていました。恐ろしく理系に傾いています。)

 

特にやりたいことが見つからなくて、でもぼんやりと描いていた「将来やりたいこと」は、文系の仕事であったため、「文系クラスを選ぼうと思う。」と、両親に相談しました。

 

父は、「理系から文転は出来るけど、文系から理転は難しいと聞くから」という理由で、強く理系クラスを勧めてきたので、親の言うことには基本的に従ってきたわたしはその時もそうしました。

 

高校2年生の終わりごろ、やっぱり文系の大学に行きたくなり、両親に「〇〇大学に行きたいと思う。行ってもいいか。」と聞いたら、二週間くらいして、「行ってもいい」という返事をもらったので、そこから受験勉強を始めました。ちょっと特別な学部で、技能が求められるところでしたので、その技能に関しての受験勉強でした。

 

中学の時は運動部に入って、まあまあ、運動神経も悪くはなかったんですが、高校でも同じ運動部に入ろうとしたら、それも両親から「お前は体力がないから」と言って強く反対されてあきらめました。その代りに選んだ部活、それを大学でも学びたいと思いました。

 

 

 

高校三年生の夏休み前、父が、「職場の人で、その〇〇大学に娘を行かせたって人がいるけど、学費がかかるばっかりで、そんなところを出ても、な~んも仕事に役に立たんかったって。」という理由で、一旦許可された「〇〇大学受験」は、却下されてしまいました。

 

理不尽でした。それでもわたしは「わかった、そこには行かないから、せっかく勉強したから、受験だけさせてほしい。」と頼みました。合格すれば、自分でアルバイトをして学費を稼ぐという選択肢も出来ますし。

 

 

しかし、「合格したら行きたくなる。受験もしたらだめだ。」と言って、受験すらさせてもらえませんでした。とどめに、「お前には、そんな才能はない!」と言われました。

 

勝手に受験に行くという方法も少しは考えましたが、九州に住んでいるわたしが東京にある私立大学に受験に行くだけでも最低でも15万以上かかってしまうため、そんなお金を持ったことのなかったわたしには、方法が思いつきませんでした。

 

 

結局、進学率99%を誇る高校で、わたしは就職を選びました。行こうと思えば、行ける大学はありましたが、それはあくまでも「偏差値的に」行けるのであって、行きたいところではなかったからです。これ以上、わたしの人生を父に振り回されたくないと心の底から思いました。

 

今考えたら、担任の先生に相談して、あるいは部活の顧問に相談して、お金を貸してください、などと言えたかもしれません。またほかに何か良いアドバイスがいただけたかもしれません。

  

実際には、先生にも、友達にも、誰にもこの理由は話せませんでした。潜在的に、「家庭内の恥を他人に言えない」と思っていたのだと思います。たとえて言うなら、自分の親が汚職で捕まって刑務所に入っているとしたら、わざわざそんなことを他人に話さないですよね。それと同じくらい、「話せることではない」ことでした。八方ふさがりだと感じました。

 

担任の先生からは、「大学に行け。お前は伸びる。受かる。」と、優しい説得のお言葉をいただきましたが、哀しく笑ってすませました。

 

タイミングも悪かったんですけどね。わたしには兄と弟がおり、父はそちらの方が大切だと思っていました。「男は一家を背負って立つ。」と言う考え方であったし、実際、母はずっと専業主婦でしたから。

 

ただ、父のわたしに対する扱いが理不尽であったように、弟に対してもやはり首尾一貫していなかったため、弟はわたしよりもさらに早くに家を出ていきました。弟が、一番そういう意味では賢かったのだと思います。

 

そして、一番甘やかされて育った長男も、口だけはやる気でしたが、結局大学を卒業することはできず、精神を患って現在に至っています。

 

わたしは19で家を出て、一生懸命勉強して、いろんな資格を取りました。難しい資格試験にも合格したので、実力主義の仕事をしています。

 

今、自分の黒歴史を振り返って思うのは、あの頃は「考える力がなかった」と言うことです。

 

人とのコミュニケーション能力(この場合、自分の考えを上手に人に伝えること)もなかったし、問題の解決能力もなかった(突然「受験させない」と言われ、すべてをあきらめた)と感じます。

 

甘ちゃんでした。真面目に勉強し、親の言うことを聞くだけのいい子ちゃんでした。挫折も知りませんでした。貧しさも知りませんでした。

 

 

 

 

その点、たとえば幼いころ病気で親を失くして片親家庭で育った子だったら、医療に関心を持ったり、貧しい家庭で育った子だったら、お金を稼いで生活していくためにはどんな資格があったらいいか考えたり、そういう偏差値に現れない思考力が磨かれるのではないかと思います。

 

 

同じように医療に関心がある子供の中で、親が医者だから自分も医者を目指す、というのも自然なことではあると思います。しかしそういう人こそが、いわゆる「環境のおかげ」と揶揄された部類に入る人であり、「偏差値だけ高いでくのぼう」になりかねない恐れがあると思います。

 

‟でくのぼう”表現は辛辣ですが、これは父が亡くなる直前の担当医のような人、と言う意味で用いさせていただきます。どうぞブログ記事をご覧くださいませ。

 

 

www.kintaro-o.com

 

 

父たろ夫は本当に自分のために生きた人だったなあと思います。

 

大学受験を阻止されただけではなく、その後も自分の人生を謳歌するためにわたしの人生に不当に介入してきました。19で家を出たのはそのためです。具体的には書きませんが。

 

ただ父は不器用な愛情もありました。父が亡くなる1週間くらい前、ギリギリちゃんとした会話ができた日に、それまでの理不尽な扱いをすべて帳消しにして余りあるような、すごいことを言ってくれました。父の本当の本音、そして覚悟を聞くことができました。

 

それは、反省とか懺悔とかではありません。お金に関することでもありません。

 

わたしの価値観と、父の価値観がシンクロした瞬間でした。

 

それがどんな会話だったかは、わたしたちの秘密にさせてくださいね!

 

 

 

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